本庄浦漁業協同組合(ふるさと通信編集委員会)のホームページから


海人と浦嶋伝説
(浦嶋伝説を運んだ人)

(暫定版2004.03.26)注意:宿題やレポートを書くための参考にしようと思って見てはいけません。

海人(あま)の祀っている神様(神社)について

権利と義務

 殺生を禁じた仏教が入って来てから色々複雑になって来てしまっていますが、海に生きる人達の生活には、本来持っていたであろう、航海の安全の保証や豊饒の海からの贈り物を遣わしてくれる神への畏敬の念と感謝の気持ちを表す行動が溶け込んでしまっています。
 元々、豊饒の海からの贈り物(狩猟採集や農耕、牧畜でも同じですが)を遣わしてくれた神への捧げ物であった贄(にえ)が、次第に神様を祀る仕事に携わっていた人たちへの捧げ物に変質して行ったものが税であると説明されています。
 日本が律令国家になり、国家が租・庸・調、その他の形で人々に義務(役務)を課してくるようになるのと、海人が神社の供祭人(くさいにん)として組織化されて行くのがほぼ平行して起こっています。
 これは、海に生きる人達にとっては、(権威・権力と結びついて)漁業や通商・海運を行う権利が固定化してくることと、魚介類やその加工品や塩などの提供の義務、また輸送や軍事に関わる水夫(かこ)としての使役に応じる義務が強まって来ることとが対応して歴史が進んで来たものです。

 義務を課す側は、神様を祀る人から、寺社も含む荘園領主を経て、封建制度による幕藩体制の領主に変わってきました。
 明治政府は、1875年(明治8年)に、徳川時代からの小物成(漁業税を含む)・浮役等の雑税が課せられていたものを廃止し、海面を国有化しようとしましたが、漁業者の抵抗にあって、海面借区制を廃止し、漁場使用の旧慣を認め、漁業者に府県税を納付させるようにしました。
 これ以降、税については、現物での納付は無くなりますが、太平洋戦争時に漁船と人が海軍に徴用されていますし、水揚げした水産物を市場に集めるという形での管理は続いています。
 現在も続いている漁業権の制度には、こういった漁民が果たさなければならなかった多くの義務の上に成り立って来た背景があります。

海人の系統

 日本の海人の系統は、大林太良さんは、日本に移り住んできた地域との関わりで、大きく分けると、カムチャッカ半島から北米太平洋岸に繋がる北方系(サケの文化圏)とインドネシアに繋がる南方系、揚子江河口域に繋がる江南系の3系統あると述べておられます。
 大和朝廷による国家が形成されていく頃には、海人集団の義務と権利関係が神社の下で組織化されていき、安曇系とか、住吉系、宗像系など、神社の名前で分けられるようになっているようです。
 昭和の時代においても、民俗学者の宮本常一さんは、男が銛を持って魚を良く突く(住吉3神を祀っている)グループ、家船で海上生活をする(大山祇神を祀っている)グループ、男女ともに潜って主に貝類を獲る(宗像3女神を祀っている)グループの3つがあると述べておられます(「海女」中村由信写真集、マリン企画、1978)。
 そこで、京都府内の漁村に祀ってある神社や、漁業者が参詣に行く神社(蛭子神・恵比寿さんは除く)を見てみますと、次のようなものが上げられます。

(1)宗像系
宗像系(宗像神社の系統)
 京都府内の漁村地区には宗像神社の名前はありませんが、市杵島姫命(弁財天の方が多い)や宗像3女神を祀っている所があります。また、由良川に沿ってもあるようです。
 伊根町内では、本庄上(殿村)の八柱神社、菅野の上山神社、本坂の八重垣神社などに5男3女神が祀ってあります。
(2)安曇系
安曇系(海神神社の系統)
 京都府内の漁村地区には安曇の名前はありません。
 隣の兵庫県の津居山には海神社があります。
住吉系(住吉神社の系統)
 伊根町内にはありませんが、京都府内の漁村地区には、宮津市に3ヶ所(石浦、上司、住吉)と網野町に1ヶ所(浅茂川)の計4ヶ所に住吉神社があります。
 また、由良川から、牧川の上流にもあります。
日吉神社(山王社)の系統
 漁村地域のほか、由良川沿いにも多くあります。
 宮津市内の日吉神社(山王神社)では京都府の漁業関係者が大漁祈願祭を行いますが、これは、蛭子神が合祀されているせいでしょうかね。
(3)大山祇系
賀茂神社の系統
 伊根町内にはありませんが、網野町の磯と木津に賀茂神社があります。
三島神社(大山祇神)の系統
 伊根町内には吉谷に大山祇神社があります。
 近隣では、網野町の下岡と塩江に大山祇神を祀っている所があります。
(4)その他
金比羅山の系統
 内陸部の峰山町にある金比羅さんには、京都府の漁業関係者が大漁祈願祭を行ったり、香川県琴平町の金比羅山に詣って貰ってきたお札を返しに行きます。
白山神社の系統
 京都府内には宮津市大島地区にあります。
 航海安全の女神様のようで、京都府の漁業関係者が石川県の白山まで行って大漁祈願を行います。某所の漁業者の皆さんがお参りに行っている間に、網が流されたということがあったようです、前の晩に何か女神様を怒らせるようなことでもしたのでしょうか。
八幡神社の系統
 ほとんどどこの地区にもあります。
 伊根町内には旧筒川村の野村にあります。上流の山間に薦池という集落がありますが、宇佐八幡宮と同じように、薦(まこも)を採って来て祭りを行ったのでしょうか。
(5)天火明神
「老嶋神社」(冠島):老人島大明神を斎き祀っており、舞鶴市、宮津市、伊根町の漁村では5月から6月にかけてお参りする風習があります。
 丹後風土記には、常世島(男島、女島)に天火明(アマノ・ホアカリ)神と日子郎女(ヒコ・イラツメ)神を海部直と凡海連(オオシ・アマノ・ムラジ)が祖神としていることが書かれています。
「籠神社」(宮津市字府中):冠島の老嶋神社と同じ天火明神を祀っています。
(6)浦島太郎と関係のある神社
(伊根町)「宇良神社」(字本庄浜)
(網野町)「網野神社」(字網野)、「六神社」(字下岡)、「島j児神社」(字浅茂川)
(大江町)「浦嶋神社」(元伊勢内宮の別社)
(福知山市)「浦嶋神社」(戸田:由良川の上流「私市古墳の近く」)

 このうち、本庄地区では、宗像3女神(市寸嶋比売命(イチキシマ・ヒメの・ミコト)、多紀理比売命(タキリ・ヒメの・ミコト)、多寸都比売命(タキつ・ヒメの・ミコト)が、現在の海岸からは遠い本庄上(殿村)の八柱神社に5男神と共に祀られています。 

本庄上で祀られている八柱神
<5男神>.....日本神話に出てくる5体の神様
天忍穂耳命(アメの・オシホミミの・ミコト)
天之菩卑命(アメの・フキの・ミコト)
天津日子根命(アマつ・ヒコネの・ミコト)
活津日子根命(イキつ・ヒコネの・ミコト)
熊野久須毘命(クマの・クスヒの・ミコト)
<3女神>.....宗像3女神と同じ神様
市寸嶋比売命(イチキシマ・ヒメの・ミコト)
多紀理比売命(タキリ・ヒメの・ミコト)
多寸都比売命(タキつ・ヒメの・ミコト)
 宗像神社の元職員の楠本正さんは「玄海の漁労民俗」(海鳥社,1993)という著書の中で、「大島が潮の逆巻く所、すなわち「タキツ」島と思えたのであろう。」と述べておられます。 (「タキツ」=煮えたぎるの「たぎる」と同じ=三角波か?...怖いなー...)
 島根県に多伎町(昔の多伎郷)がありますが、タギリ姫もタキツ姫も出雲に嫁に行ったようですし、関係はないのでしょうか。

八柱神は明治の神仏分離令の前は八大荒神だったようですが、誰がこの8人の神様に割り振ったのでしょうか。

寄り神

 本庄浜では、常世浜のエビス神社(大岩の祠)で4月20日に「浜祭り」と呼ばれる行事があり、神社の宮司を呼んで、祝詞をあげて海上安全・大漁を祈願します。なお、その後、砂浜に大敷でとった魚や酒などが出されたり、岩の上から紅白の餅をまいて子供に拾わせたりした「なおらい(直会)」と呼ばれる行事が昭和30年頃まで続いていたことが記されています。

 エビス神は「寄り(来る)神」と呼ばれるものの1種で、日本中の漁村で普通に祀られているもです。
 寄り神として祀られている御神体は、特に南の方では、圧倒的に石が多いようですが、常世浜の蛭子神社の御神体は、元はお札で、今は焼き物の像だそうです。
 その他に、新井崎や蒲入に祀ってある事代主命(コトシロヌシノミコト=大国主命の息子)や舞鶴市の由良川沿いにある大川神社境内の醫祖神社に祀ってある少彦名神(スクナヒコナ=大国主の協力者)もエビス神と同じということのようです。
(...越前にはカゴを編んだ船に乗った菅原道真の像が着いたという所もあるようですが。)
 浦嶋神社には白い翁と黒い翁の1対の木製の御神面が保管されていますが、宗像神社も木製の面が流れ着いたという伝承があるようですので、浦嶋神社のお面も流れ着いた寄り神だったら面白いのですが。ただし、本当の御神体は誰も見たことがないので何か解りません。箱に入っていて、揺するとゴトゴト音がするそうです。(...白い石なら羌族の信仰と関係があったりして面白いでしょうに。...石の御神体は三柱神社?)

 隣の蒲入に真島佐田大明神がありますが、これは、この場所に流れ着いた木偶(佐田大明神)を祀ったもので、佐渡から来たと言われています。
 ...しかし、蒲入では神無月に合わせて神様送りと神様迎えの行事がありますが、神在月に神様を迎えるのが、島根県の恵曇町の佐田神社というのが何とも意味深です。
 蒲入は越前四ヶ浦から移住した人たちが住み着いたと言われており、越前へは出雲から移住したという話しもありますので、1年に1回故郷である出雲(佐田神社?)へ帰るということの方が納得しやすいような気がします。(...サダ→サダル→サルタヒコの話は省略)

 伊根の御神体は越前四ヶ浦から運んできたという話が伝わっていますし、越前では(四ヶ浦のもっと北の方ですが)、美保関の美保神社から分けてもらった御神体が盗まれたので、また貰いに行ったという話が伝わっています。
 伊根町内の各地区で祀られている寄り神様は様々ですが、いずれも何か全て出雲に関係しているような気がします。
 ...ただし本庄の神様は出雲には行かないようです。
(伊根の地名については、稲別命から来ていると言われています。しかし、出雲には谷川健一さんが反り子舟の出生地として上げておられる居野津(猪野津)(伊農郷=現在の平田市の伊野)や伊努神社(伊努郷)があるようですし、伊根の神様も出雲に行かれるようですので、"イヌ"で繋がっているかも知れませんね?....美保神社の諸手船と良く似た”こばりあい”もあることですし...)

 ちなみに、地名の話なら、鳥取県の東部、福部の近くに本庄と新井という所があります。

 ん〜!、しかし、セグロウミヘビが佐田神社や出雲大社に神様がこられる前触れのお使いだとは知らなんだな〜。丹後でも希に定置網に入ることがあるが...

祭り

 三柱神社の方は、祀られている神様が竈の神様で、漁村よりもむしろ農村に多く祀られているもののようですので、水田稲作と関係深く、春と秋の祭りは余り海人とは関係なさそうです。
 一方、夏の祭りは起源が複雑そうです。浦嶋神社には、旧本庄村の蒲入、長延、本庄上、本庄宇治、本庄浜の5つの集落で集まって太刀振りを奉納していましたが、皆んなで集まってお祭りをした後に、各集落ごとにジゲの祭りを行うというのも、何か武士団として組織された名残のような気がします。(*江戸時代には、本庄上、本庄浜、本庄宇治、津母、峠、泊、新井崎、井室、畑谷、菅野、野村、長延、蒲入などの諸村が浦嶋神社の氏子であったようです。)
 この他にも、複数の集落が集まるということでは、川裾祭りがあります。
 毎年7月の終わりに筒川の河口に周辺の集落の人達が集まります。
 能登、若狭、丹波、丹後、但馬地方では、7月の終わりに「川裾祭り」をやる所が多いようですが、これは、川に入って禊ぎを行うもので、祇園祭りとの関係もあるのかも知れませんが、住吉神社の祭りのところが多く、住吉神社と関係があるのではないかと思っています。
 ここで興味深いのは、河川流域の集落の人達が河口に集まる理由で、網野町誌には、「...川裾祭りは川下を汚さぬようにする川の清掃行事である。....川上の住人が川下の住人へ、水を汚してすみませんと詫びにいったのもこの日である。」という風に書かれています。
(...船を造るのに良質の材を切り出す必要がありますが、山からの輸送には川が必要ですので、海人が川伝いに上流に移住した例は各地にあるようです。川の上流と下流の人達は意外とつながりがあるものですね。...あるいは鉄と関係しているのかも知れませんね。)

(参考) 筒川流域の神社と祭神 (愛宕神社や秋葉神社などは除く)        
集落名 神 社 名 祭   神   名 創建年代
寺 領 猿田彦神社 猿田彦命(元青龍大権現) 1330年
薦 池 三柱神社 火産霊命・興津彦命・興津媛命(元三宝荒神) 1274年
朴 丸 三柱神社 火産霊命・興津彦命・興津媛命(元三宝荒神)
河来見 三柱神社 火産霊命・興津彦命・興津媛命(元三宝荒神)
(古くは熊野大神を祀っていた)
野 村 八幡神社 誉田別命(応神天皇) 1521年
三柱神社 火産霊命・興津彦命・興津媛命(元三宝荒神) 1489年
吉 谷 大山祇神社 大山祇命 1688年
足 谷 下山神社 五男三女神(元八大荒神) 1369年
本 坂 八重垣神社 五男三女神(元八大荒神) 1455年
三柱神社 火産霊命・興津彦命・興津媛命(元三宝荒神)
本庄上 八柱神社
(西神社)
八柱神
(猿田彦命)
1504年
三柱神社
(大明神社)
火産霊命・興津彦命・興津媛命(元三宝荒神)
(今田三郎)
1573年
三柱神社
(父子社)
火産霊命・興津彦命・興津媛命(元三宝荒神)
(浦島太郎)
1101年
本庄宇治 三柱神社 火産霊命・興津彦命・興津媛命(元三宝荒神)
(曽布谷次郎)
1752年
本庄浜 宇良神社 浦島子(浦島太郎)
月読命、祓戸大神
 825年
(延喜式内社)
若宮神社 三野対馬守郎女命 1624年
三柱神社 火産霊命・興津彦命・興津媛命(元三宝荒神) 1503年
三柱神社
(大太良神社)
火産霊命・興津彦命・興津媛命(元三宝荒神)
(浦島太郎の父?)
1386年
長 延 古森神社 八柱神(元八大荒神) 1302年
湯之山 若宮神社 五男三女神(元八大荒神)
菅 野 上山神社 五男三女神(元八大荒神)
火産霊命・興津彦命・興津媛命(元三宝荒神)
1036年
福の内 桑飼神社 火産霊命・興津彦命・興津媛命(元三宝荒神) 1278年
以下の2集落は筒川流域ではありませんが、旧本庄村ということで...
野 室 八柱神社 八柱神(元八大荒神) 1529年
蒲 入 真島神社
真島佐田大明神
火産霊命・興津彦命・興津媛命(元三宝荒神)
佐田大明神
1456年
元禄の頃

浦島伝説を運んだ人について

浦島伝説交流サミット

 「宇良神社」は通称「浦嶋神社」と呼ばれ浦島太郎が祀られています。
 ということで、浦島伝説については、浦島伝説交流サミットの方に任せることにしましょう。
 第20回全国豊かな海づくり大会が京都府網野町八丁浜で開催されるのに合わせて、大会のサブイベントとして伊根町で開催された第1回の浦島シンポ2000では、大林太良先生が、「浦嶋伝説の源流」について記念講演されました。
 講演では、浦島伝説の中の「不思議な時間」と「失われた釣り針」の2つの要素を取り上げて講演され、「失われた釣り針」については、「全体的に見ますと、太平洋の周りに分布していて、南方系の話であろう」と言っておられましたし、「不思議な時間」については、「ユーラシア大陸を西から東に流れる大きな文化の流れと関係あるのではないか」と言っておられました。
 また、講演終了後のパネル・ディスカッションの中では、浦嶋伝説を考える上で、徐福伝説や海幸・山幸彦の伝説を切り離して考えるわけにはいかないという考え方が出されていました。

【うらしまシンポ2000】及び【浦島伝説交流サミット】
第1回 平成12年7月 2 日 京都府与謝郡伊根町で開催
第2回 平成13年9月30日 京都府与謝郡伊根町で開催
第3回 平成14年6月 9 日 長野県木曽郡上松町で開催

海幸・山幸彦

 徐福については、浦島伝説の中に流れている神仙思想と関係がありそうですが、秦の始皇帝の時代の話なら、今から2千2〜3百年前の話ですが、海幸・山幸彦の話は太平洋域に広く分布しているようですので、相当古くに広まったと考えられ、徐福の話とは随分時代的に差があるような気がします。

 アメリカ先住民(インディアン)のイロコワ族の口承史がポーラ・アンダーウッド女史により出版されていますが(「一万年の旅路」,翔泳社1998年)、この本の冒頭に海幸・山幸彦の話が出てきます。
 それによれば、一族には海で生活するグループと山で生活するグループがあり、海で生活するグループの方が指導的役割を担っていたことが書かれていますし、大地震とそれに引き続く大津波によって、海で生活する指導者グループが壊滅し、そのことを契機にして、ベーリング海を渉ってアメリカ大陸に移住し、五大湖周辺に落ち着いていった歴史が語られています。
 これは、海幸彦の方が威張っていたことや、「潮(塩)干る玉」と「潮(塩)満つ玉」を使って海幸彦をやっつけた話と驚くほど一致しているだけでなく、より真実身を帯びています。

 この話を読んだ時に、これは姶良火山の大爆発だと思ったのですが、姶良火山の大爆発は2万4千年前ということですので、アメリカ大陸に渉った時期としては、ちょっと古過ぎます。(ベーリング海は渉れても、氷河に阻まれてアラスカから南下できない。)
 次の大噴火は、鬼界カルデラの大爆発ですが、これは6千年前ということで、ベーリング海を歩いて渉るには新し過ぎます。(この時期に縄文人が太平洋を渡って南米に達したという話はありますが。)

 1万2千年前頃には世界的に民族大移動があったようですが、この時期には、縄文海進を引き起こした温暖化の時期にあって、ヤンガー−ドリアス期と呼ばれる、200年くらいの間に急激な寒の戻り(寒冷化)と回復(温暖化)の時期があったことが知られています。そして、20〜30年で気候が一変してしまうような激しい気温の変化があったと言われていますので、人類の大移動を引き起こすような天変地異(当然海岸線の前進後退も含めて)があったことは確かなようです。
 どこかで火山の大爆発があったかもしれません(十和田湖の爆発では地震は起きても津波は起きない)が、堆積物に証拠が無いようでしたら、一番証拠が残り難い氷の固まり(彗星?)が何処か浅い海に落ちたことにでもしておきましょう...って無理か。(...しかし、北米の氷河が崩壊して大西洋になだれ込んでも太平洋に超巨大津波は起きないしな〜?..氷河の氷が溶けて北の方が軽くなり、船の片荷のように大陸の重力バランスが狂ったか?)

 アメリカ先住民のホピ族は、沈みゆく故郷の山々の頂が島となって、最後には海に没していく姿を後ろに見ながら、海を越えてアメリカ大陸に渡っていったようですので(フランク・ウォーターズ「ホピ宇宙からの聖書」徳間書店,1993)、世界中の洪水(=津波という言葉は日本にしか無いので、たぶん津波)神話はこの時の激変時に出来たということにして、(チグリス・ユーフラテス川の氾濫では、新し過ぎるし、太平洋沿岸には関係ないし、東アジア地中海域の当時の海岸地帯(今は水深40〜50m程度の海底になっているはず)から、四方八方に命からがら逃げ散った人達が伝えたということで取りあえず納得しておきましょう。


物語の変容

 韓国で光州事件が起こった時、政府軍の暴虐・非道ぶりを伝える出来事として、妊婦の腹を割いて中から胎児を引きずり出したという記事が伝えられました。
 始めは何という非道いことをする奴らだと、まんまと新聞記者の罠にはまりそうになりましたが、何処かで引っかかるものがありました。その後、中華人民共和国演義という小説を読んだ中に、同じことが書かれていました。そこで、はたと気づいたのですが、これは、中国の古典に出てきた話(殷の紂王と妲己の暴虐)ではないかと思い当たりました。(日本にも武烈天皇の話がありますね。)
 これで引っかかりの原因は解消したのですが、物語が、何処かで記憶に残っていた過去の話であったはずのものが、こうも簡単に、その時の出来事に変わってしまうことには、唖然とせざるをえません。
 新聞記者は文学部の出身者が多いはずで、古典に通じている人も多く居るはずですが、記事が派手にさえなれば良いのか、こんな尾鰭の付いたような話を誰も解説してくれなかったことには、腹立たしい思いもします。
 そういえば、星の王子様に出てくる、「象を飲み込んだウワバミ」も、ドリトル先生に出てくる「オシツオサレツ」も、山海経に出てきますが...創作の物語だから良いか。

浦島伝説関係年表
物  語 日本列島の出来事 中国大陸・朝鮮半島の出来事
<姶良カルデラ大爆発>
(被害の程度は想像したくない)
<縄文海進始まる>
約1万2,000年前イロコワ族大地震と大津波に合い、ベーリング海を歩いてアメリカ大陸に渉る旅へ出発する <ヤンガー・ドリアス期>
(寒冷への逆戻りと急激な回復)
海幸彦が潮干玉と潮満玉で懲らしめられる
ホピ族海を渡って北米に向かう? <再び温暖化による海岸線の上昇>
<縄文海進最盛期>(海面現在より2〜3m高い)
熱湯の洪水ワ族の祖先を襲う? <鬼界カルデラ大爆発>
(大火砕流で半径千kmを超える範囲内の生物絶滅する)
縄文人太平洋を渡り南米に到達する?
黄帝(黄河文明)と蚩尤(長江文明)の戦い
約5,000年前 【河母渡文化】
BC1700頃 殷王朝を開く
失われた釣り針の話しが拡がる? (民族大移動<海の遊牧民の時代>) BC1070頃 周王朝を開く
越人難民となって日本列島に渡来する? BC473 呉王夫差越王を滅ぼす
BC210 徐福が東海に仙薬を探しに行く 斉民難民となって日本列島に渡来する? BC221 秦中国を統一する
BC202 劉邦漢の皇帝となる
彦坐王の伝説はこの頃か? BC154 呉楚七国の乱
張騫が地の果てを通り越して牛飼いと織り姫に会い天の川の石を持ち帰る BC126 張騫西域から帰る
BC111 漢が南越を平定し9郡を置く
BC108 漢が朝鮮を平定し4郡を置く
BC60 漢が西域都護を置く
永平5年(62)浙江省の劉晨と阮肇が天台山に行き7世代後に帰る 57 奴国王漢に朝貢する
166 ローマの使者漢に来る
(この頃 倭国大乱) 170年代 張角太平道始める
184 黄巾の乱 (この頃五斗米道始まる)
太始年間(265-274)北海県の蓬球玉女山に行き、建平年間(398-404)に帰る (235 青龍三年の鏡が丹後から出土) 238 燕国(公孫氏)滅ぶ
239 卑弥呼魏に使者を送る
273 金久与市説による四道将軍の任命
   (彦坐王の伝説)
317 葛洪「抱朴子」を撰す 383 ヒ水の戦い(羌人の国前秦破れる)
(鮮卑、羌などの勢力拡大により、中国の人々の移住が激しい時期)
413 倭王讃、東晋に使者を送る
418 陶淵明「桃花源記」を書く
雄略天皇の22年(478)7月7日浦島子蓬莱山に行き淳和天皇の天長2年(825)に帰る
豊受大神伊勢へ遷座する
478 倭王武が宋に上表分を送り安東将軍に任ぜられる 479 宋から斉へ王朝交代
(この頃、百済から多数の才伎(てひと)が渡来する) 502 斉から梁へ王朝交代
526 求菩提山(修験道)創始
527 筑紫国造磐井の反乱 (道教勢力の敗北)
  (この後、阿曇氏の勢力が強まる。)
552 仏教公伝 557 梁から陳へ王朝交代
587 物部守屋滅ぶ(蘇我馬子らの崇仏派の勝利) 589 隋中国を統一する
600 最初の遣隋使
602 百済の僧観勒が遁甲方術の書を貢上する
604 17条の憲法 (仏教が重要な位置を占める)
607 推古天皇が神祇を祭るよう指示 618 隋から唐へ王朝交代
684 阿曇氏が宿禰の姓を賜る 660 百済滅ぶ
701 丹後に大地震、冠島と沓島島となる 701 大宝律令 (神祇官が独立)
710 平城京遷都
713 丹波と丹後に分国
◎風土記の筒川の嶼子 712〜715 丹後国風土記出来る
◎日本書紀の瑞江の浦嶋子 720 日本書紀撰上される
◎万葉集の水江の浦島の子 770〜780 万葉集全20巻完成する
825 淳和天皇が天長2年7月22日浦嶋子を筒川大明神と名付け、小野篁を使わし宇良神社を創建させる

海に沈んで残された島

 話が脱線しましたが、同じような出来事が起こった時に、言い伝えられてきた伝承と、現実の出来事が入り交じって、新たな伝承が生まれるとすると、701年の凡海郷が地震と津波で大被害を受けた時に、冠島まで陸続きであったものが海になってしまったという話しも、海に沈んで残された島の過去の伝承が、701年の出来事にすり替わってしまったのではないでしょうか。何せ、大浦半島と冠島との間の水深は70m以上もありますし、冠島と沓島の間の水深も60m以上あるのです。こんなに一度に沈んだとすれば、奈良の藤原の宮も無事ではいられなかったはずです。...小橋の地先にある沖葛島と磯葛島なら可能性がありますが...

 縄文海進の始まる前(2万年前)には、今より120mくらい海面が下がっていて、人類が対馬海峡を歩いて渉れたかどうか論議の対象となっています。
 ベーリング海峡の最深部は45mで、イロコワ族の祖先は1万1〜2千年前に歩いて渉ったようですので、冠島が陸続きであったのはもっと古い時代の石器時代ということになります。
 しかし、気候変動も何度かあったようですし、狩猟採集民が、そんなに永く1ヶ所に止まり続けていたとは思えません。また、陸続きであった冠島が、数千年かけて島になったとしても、代々語り継がれる程の意味は無かったと思います。

 海に沈んで残された島についての伝承ということからは、谷川健一さんの「古代海人の世界」(小学館、1995)に引用されている隠れキリシタンの伝承など、九州五島列島以南の隼人系海人の影がちらつきます。
 ...これも洪水伝説のバリエーションの可能性が高いということで...狛犬の顔や、亀の目や、門扉を赤く塗ったのが洪水の原因なら、強烈な赤い光が先に届いた後に大津波が押し寄せたのでしょう。


亀井貫一郎さんは、古代羌人は山東半島に入れなかったと書いておられますが、鳥取県の淀江町角田遺跡の壷の絵では鳥の羽飾りをした人が舟を漕いでいますが、漢字の「羌」は「羊+人」の他に、鳥の羽の頭飾りをした人の形から来ているという説があったように思いますが?
 ...母系性?の姜の方かな〜・・・ン? 姜子牙=太公望=釣り=漁民??
 ...羌と同系のテイ(氏+一)は何で人魚なんでしょうね(ハゲ頭のおっさんやけど)
 山海経の貫胸国が貫頭衣を着た人の国なら、羽飾りをした人の国は羽民国ですかね?...讙頭国の人は翼があって、口が鳥の嘴のように尖がっていて、魚を捕まえているそうですが(こっちは鵜飼いのようですね)....妖怪(=シユウ蚩尤?)の侵略を逃れ筏で台湾に渡った高山族にも頭に鳥の羽飾りをしている人達がいますね。...舜が征伐した鳥夷でしょうか?(蚩尤は姿は妖怪だけど、負けた方だから本当は黄帝の方が妖怪だろうな〜...そういえば、蚩尤も姓は「姜」のようですね。)
 全然関係ないけど...、徐朝龍さ〜ん...、三星堆の竪目仮面は、単に蛾(蚕)か蝶を人格化しただけのものではないでしょうか、大きな耳は羽で、飛び出た目は触覚で、ゼンマイ状の鼻の飾りは蜜を吸う時に伸びる口とちゃいますか〜(.....蝶なら苗族の祖先?)

浦島伝説を運んだ人

 大江山の鬼伝説にも関わってきますが、若狭〜丹後地方には、土熊(土蜘蛛)と呼ばれる(青葉山や大江山にいた)先住民を日子坐王が成生崎や立岩に追い詰めた話も残っていますし、隼人、白水郎、土蜘蛛が同じ南方に起源を持つ海の漁労採集民(山にいたのなら狩猟と焼き畑農耕もやっていた?)とすると、(日子坐王の伝説は九州地方かどこかであった事件=女土蜘蛛を征伐した話しなどの借り物としても)先住のこれらの人々の1万2千年の昔に海の底に沈んだ故郷の思い出が、その後の6千年前の鬼海カルデラの大爆発も含め(熱湯の洪水は多分この時の話でしょう)、津波に(山に逃げた人達はその後津波を見ることがなかったでしょうから洪水に)遭うたびに、変形しながら伝えられてきた伝承が、徐福に代表される、稲作農耕や鉄と共に神仙思想を持ち込んだ人々によって、当時のトレンドに合わせて、改変されたであろうことは想像に難くないと思われます。
(物語の時代はもっと下がりますが、大江山の鬼を征伐するのに、住吉、熊野、八幡、日吉の神の力を借りたことになっていますが、何か全て海と関係する=それも大和朝廷以降に組織化された新興勢力の=神様のようですので、...父系性の住吉系が母系制の宗像系を滅ぼした象徴ですかね?....由良川の海運の利権を巡って争ったような気もしますが...)
 「古代社会と浦島伝説」という著書(雄山閣出版、1975)の中で、水野祐さんは、浦島伝説の原型を運んだのは、隼人と関係の深い、南方起源の宗像海女の系統であり、その後、住吉系の海士などにも伝わり、彼らの活動範囲が拡がるのに合わせて拡がって行ったのであろうと言っておられます。
 残念ながら、中郡、竹野郡、熊野郡などの丹後地方は、弥生時代以降、稲作農耕と製鉄、織物技術を持った集団(安曇海人の系統と言われている)が、大和政権と密接な関係を持ちながら、一つの王国を成すほどのまとまりを持って繁栄したために、宗像海女の痕跡を探すのは難しくなっています。(...京都府内の漁村では、丹後町の袖志に海女さんがいましたが、他の地区では、アワビやサザエは船から水中を覗いてヤスで突く「水視」という漁法で獲るのがほとんどで、最近になって、少し若い人で潜って漁をする人が出て来たくらいです。)
 網野町にも浦島太郎を祭っている神社がありますが、こちらは、安曇海人の系統と言われている住吉神社と一緒になってしまっています。

(メモ)
越前(福井県)の浦島太郎は丹後へ行った。
木曽(長野県)の浦島太郎は丹後から来た。
相模(神奈川県)の浦島太郎の父は丹後に赴任していた。

 安田喜憲さんは「講座文明と環境第5巻文明の危機」(朝倉書店、1996)の中で、寒冷化と人類の大移動との関係を明らかにしておられますが、それによれば、3万年前、1万3千年前、5千年前、3千年前、古墳寒冷期、7世紀(以降省略)に人類の大移動(と戦乱)が寒冷化によって引き起こされているようです。
 その中で、紀元前1,000年(3千年前)は「海の遊牧民」たちの世紀だったのであると述べておられますが、「失われた釣り針」型の神話はこの時に拡がったのでしょうか。
 釣り針を取り返しに行く話しは、単純に津波が起こった理由が膨らんでいっただけかと思っていましたが、大林先生から講演で紹介していただいたインドネシアの話には、覆水盆に帰らずの話まで引っ付いていて、そちらが主題のようでしたので、残念ながら、ここからは「失われた釣り針」の話を伝えなけれならなかった理由は良く解りませんでした。
 丹後地方には「不思議な時間」に関係する伝説として、「浦嶋伝説」の他に「八百比丘尼」の伝説と「羽衣伝説」があります。「羽衣伝説」については、雲南省から東南アジアにかけての少数民族(苗(ミャオ)族や哈尼(ハニ)族、泰(タイ)族その他)の間に広く分布しているようですので、大林先生の言われるユーラシア大陸を西から東に流れる大きな文化の流れの1つの道(亀井貫一郎さんの言われる第1東胡のヒマラヤ迂回派のルート)があったことが窺われます。
 春秋戦国時代の戦乱の時期から斉や呉や越が滅んだ時に、逝江省から山東半島にかけての地域から大勢の人達が日本列島に渡ってきたようです。この時に既に不思議な時間の話が逝江省付近にあったかのかも知れませんが、アメリカ大陸や太平洋諸島域に不思議な時間の話が無いということは、不思議な時間の伝搬は紀元前1,000年(3千年前)より遅い時期と考えられますし、中国の話は西域との交流が確立した漢代の遅い時期から後に出来た話のようですので、もっと後の、大和国家成立過程の時期に大陸と往復した人達がもたらした(神仙思想と一緒にかどうかは判りませんが)ということにしておきましょう。
 鈴木満男さんの「環東シナ海の古代儀礼」(第一書房、1994)から引用して終わりにします。
「宮崎(注:宮崎市定さん)の推論に従うならば、浦嶋伝説にとって重要な時代は、実は唐ではない。その200年前、南朝の晋から宋にかけての時代であるらしい。..<中略>..さて、倭国からの入貢船の取った航路は、東シナ海を横断して直ちに揚子江の川口に到達する新しい航路であったらしい。この海路の開発者は、宮崎の推定によれば「五斗米道と呼ばれた三呉の道教信徒、海上交通業者」であった。つまり、日本列島へ南朝の道教を伝えたのも、当然これら三呉の海人たちであっただろう。浦嶋伝説を彩る道教の色彩は、宮崎の手によって、このように具体的な時と所において想定が可能になった。」


 いい加減なことばかり書いていると、このHPの品位を汚しそうですので止めます。(にわか勉強では荷が重い。
伝説についてキチンと調べたい方は、次の本を図書館で探してください。
 浦嶋神社へ行けば、宮嶋宮司さんから詳しくお話が伺えますよ...
浦嶋伝説関係の参考図書(一部まとまったもののみ)
 水 野  祐  「古代社会と浦島伝説」 雄山閣出版 1975
 重 松 明 久 「浦嶋子伝」 現代思潮社 1981
 福永光司 ほか 「日本の道教遺跡」 朝日新聞社 1987
 瀧音能之・三舟隆之 「丹後半島歴史紀行」
浦島太郎伝説探検隊
河出書房新社 2001
 浦嶋伝説関係リンク
 網野町の昔話 http://www.town.amino.kyoto.jp/history/index-densetu.html
 愛知県武豊町の浦嶋太郎探検隊が頑張っています。 http://www.japan-net.ne.jp/~seicyan/urashima/
 
本文中に引用した以外に色々調べたい人の参考まで
(このコーナーの担当者の個人的な趣味で面白かったものだけ並べましたので悪しからず。)
伊根町内の神社について 「伊根町誌」、伊根町、1985
宗像海人について 田村圓澄・荒木博之編、「古代海人の謎(宗像シンポジウム)」、海鳥社、1991
海女・海士について 宮本常一、「海の民」、未来社、1975
 1600年代半ばに冬の季節風を利用して五島から4日で生の鰤を江戸まで運んだそうですが、バルチック艦隊を発見した宮古島の漁師は石垣島の通信所まで何時間で着いたのでしたっけ。舟山列島までは以外と早く着きそうですね。
瀬川清子、「海女」、未来社、1970
 袖志の海女さんが、野原の子を産んだことをたてに入漁権を認めさせた話は面白い。
寄り神について 喜多 路、「東アジアの古代文化39号、海より来る神」、大和書房、1984
羌族の白石信仰について アジア遊学No.5、「特集四川民族走廊」、勉学出版、1999
始祖伝説について 田中勝也、「東アジア古伝承と日本原住民」、新泉社、1990
 神話の夫婦別離のモチーフは、異民族と結婚して相手のトーテムを侮蔑したからではなくて、母系制から父系制への移行期の心理的葛藤がもたらしたのではないかという説を唱えておられます。
異界訪問伝説について 伊藤清司、「中国の神話・伝説」、東方書店、1996
祭りの意味について さくらプロジェクト主宰の三輪隆氏の言葉が重たく響きます。
  ...三輪隆文集・「黄金の三角地帯から」http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Oasis/1850/essays.html
 せっかく余所から漁業をしに来てくれた貴重な若者を地域の住民(共同体の一員)として迎えるため、隣の蒲入に負けないよう、東京から来たW君にも祭りで太刀振りしてもらっています。
京都の漁村にまつわる民俗について 益田庄三編、「京都の漁村歳時記」、京都府漁業協同組合連合会、1987
 京都府の漁業調整委員を永年勤められた漁村の事情に明るい学者さんでしたが、惜しい人を亡くし残念です。
漁民の置かれた状況について 岩崎英精、「京都府漁業の歴史」、京都府漁業協同組合連合会、1954
野村昇司・阿部公洋、「羽田の漁師」、ぬぷん児童図書出版、1984
 子供向けの絵本ですが、浦方の置かれた状況が良く解ります。
黒鴨子の歌う「漁光曲(安娥作詞、任光作曲)」が泣かせます。(上の童話を読んでから聴くと本当に泣けます。
江戸時代のような、先にその年の運上や小物成(魚の数量の割当て)を決めるような徴税の仕方は本当に過酷です。

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